DIARYダイアリー

金多楼寿司にてキリマンジャロ登山の壮行会

2019/07/18

金多楼寿司にてキリマンジャロ登山の壮行会

アフリカ大陸最高のキリマンジャロ(5,895m)への登頂を目指し、野口絵子は父である野口健と共に2019年7月17日に日本を発ちます。出発前夜には親子水入らずでキリマンジャロ登山の壮行会を兼ねて、父の行きつけのお鮨屋さんである世田谷は三宿の名店・金多楼で食事をしました。

富士山の清掃活動を終えてきたばかりの父の指定席はカウンターの一番奥。娘はその隣に「ちょこん」とではなく「スラリ」と座り、気づけば15歳の160センチ。パンツスタイルにジャケットを羽織り、ピーンと伸びた背筋の娘が徳利を傾ければ、お猪口を片手に少し猫背の父が呑む。

キリマンジャロは父・野口健にとっても特別な思い出深い山。約30年前、17歳の野口健は高山病に苦しみながら、嘔吐を繰り返し、ほうほうの体で山頂に立った。山頂のウフルピークには、初恋の相手にプレゼントしたものの、のちに返されてしまった指輪を埋めた。はじめてのアルバイトで一生懸命貯めた2万円で買った指輪だった。

そして下山後、野口健はある決意をする。「七大陸の最高峰のすべてに登れないか、それも世界最年少で」という野望である。17歳の青年が「登山家・野口健」へと変わっていく「種」を自らに宿した瞬間だった。

「偏差値の高い大学に進学し、有名で大きな会社に入ること」にすべての価値が置かれる規律厳しい進学校の学園生活の中で、「どうしてもそういう風には生きられない自分」を持て余していた野口は、ついに山を舞台に自己表現の場を見出し、この時を境に「こういう風にしか生きられない自分」をコツコツと確立しはじめていく。

1990年12月、父・野口健17歳、キリマンジャロ登山の前にケニア山に登頂

1990年12月、父・野口健17歳、キリマンジャロ登山
の前にケニア山に登頂

今宵、キリマンジャロ登山の親子壮行会では、こういった青春時代のロマンチックな話も出るかと思いきや、そんな話は一切なし。それどころか「キリマンジャロ」の「キ」の字も出ない有様。

沈黙が苦手で、いつも賑やかで、人を笑顔にするのが大好きな父は、娘が徳利を傾ければピッチをあげて杯を重ねつつ、遺骨収集活動から、大学時代によく通ったラーメン屋や銭湯、高校時代に入ろうとした自衛隊、山の怖さとそれ故の魅力、政治、選挙、右翼左翼、マック赤坂、過去の女性遍歴、自衛隊の話等々、脈絡があるのかないのかわからないトークを縦横無尽に繰り広げ、テーマごとに必ず話の「オチ」をつけ、娘のみならず、他のお客さんやお店の大将、女将、若旦那と、すべての人を笑顔にさせる。

たとえばこんな具合だ。

カウンターの常連さんから「とても親子には見えないですね~。恋人に間違われませんか?」と問われれば、すかさず父は「いや~、二人で山を歩いているとかなりの確率で間違えられますね~。だから『おい、勘違いされるからちゃんとパパって呼びなさい』って言ったんだけど、色んな『パパ』がいるからなあ~」で一同大爆笑。

そして、笑っていたかと思えば突然にこんな真剣な話も。

馴染みのお店のおかみさんが体調がすぐれないにも関わらず、いつも元気に笑顔を欠かさないエピソードを披露し、「絵子、元気な人が人を元気にするのは簡単なんだよ。でも、体調を崩したり、また、元気ではない時にその姿を一切見せないで、周りの人を元気にする、っていうのがすごいんだよ」と皆が静かに唸るような話をする。

他にも、娘が遠征前に友達から「絵子ちゃん、これキリマンジャロで食べてね」と非常食を渡されたことを告げると、しばらく黙り込んだ後、「それはちゃんと山で食べて写真を撮って送ろう」と義理を欠かさない。

かと思えば、厳しい顔も覗かせる。常連さんが「絵子ちゃんはどうしてニュージーランドに留学するの?」と聞き、一生懸命言葉を紡いでいく娘に対して「絵子! それは説明になっていないね。ちゃんと説明しないと。何が大切かってね、人にちゃんと伝える事ができるかって事なんだよ」とそれができるまで容赦ない。

そんなこんなで気づけば18時に始まった「キリマンジャロ登山の親子壮行会」は4時間後の22時に終了。

一体どうやってキリマンジャロに登ればいいのか、肝心の登山の話は一切なく、嵐のように過ぎ去っていった父・野口健。

1990年12月、後ろに見えるのがキリマンジャロ

1990年12月、後ろに見えるのがキリマンジャロ

絵子さん、明日から3週間のアフリカ遠征、きっとキリマンジャロには17歳のパパがいると思います。時空を超えてパパとコミュニケーションしてきてください。くれぐれもパパのマシンガントークに負けないように。無事の帰国を祈っています。

お喋りなパパのお友達K・Mより